11月の朝は、まだ暗い。空気は澄んでいて、息が白く凍る。公園の木々は紅葉しており、落ち葉が地面を薄く覆っていた。その中に、一輪また一輪と、遅咲きの冬桜が可憐な花を咲かせている。
誠一郎は年長の誠一郎と共に、その公園を走っていた。引越し先を決める時、年長の誠一郎が一番こだわった条件が、この自然公園の存在だった。「何かのデータで見たんだ。自然豊かな公園の近くに住む人は、幸福度が高いらしい」
小道は落ち葉を踏みしめるたびに、かすかな音を立てる。まだ日が昇っていない空の下、二人の足音だけが静寂を破っていく。長年の習慣で体が整っている年長の誠一郎に比べ、若い誠一郎は息が上がっている。不規則な生活と運動不足、そして数々の不摂生が、その差となって表れていた。
「この前、『自分のコントロール』って言ったよな?」
年長の誠一郎が、ペースを緩めながら声をかける。
「はいっ…?なんすか?」
息を切らしながらの返事に、年長の誠一郎は立ち止まった。
「歩こう。大事な話だ」
遊歩道に沿って植えられた桜並木の下を、二人は歩き始めた。ほとんどの木が葉を落とす中、一本の冬桜が花を咲かせている。その姿は、季節外れでありながら、どこか凛として見えた。
「『余裕』だと思うんだ」
「余裕、ですか?」
若い誠一郎は公園の水道で手を受け皿にして水を飲む。冷たい水が、熱くなった体を少しずつ冷やしていく。
「例えば、この前の引越しの時。納車先での事故対応で怒ってただろ?」
「はい」
「じゃあ、対応するのが自分じゃなければ、そこまで怒らないと思わないか?」
「そうですね。でも所長の俺が対応しなきゃいけないし、所長は俺しかいないし…」
「じゃあ例えを変えよう」
年長の誠一郎は、落ち葉を踏みながら続ける。
「取引先に時間指定で納車してるとする。時間がギリギリで道を走ってる時に、事故で渋滞してたら怒るだろ?」
「キレますね!」
「でも時間に余裕があったら?」
「…渋滞にはイラつくかもしれないけど、そんなにイライラしないかも」
「時間に『余裕』が必要なんだ。だから忙しい営業の正社員を辞めて、いったん無職になる」
木々の間から、朝日が少しずつ差し始めていた。その光が、冬桜の花びらを淡いピンク色に染めていく。
「でもお金に余裕がなくなりますよね」
「お金に余裕がないとき、二万円入った財布を落としたらどう感じる?」
「すごい落ち込みます」
「じゃあ仮に三億円宝くじが当たったら、その財布を落とした時はどう?」
「まいっか、三億あるし…って、なるほど」
若い誠一郎の顔に、理解の色が浮かぶ。
「時間とお金の余裕は、これからの行動次第で作れる。でも、それ以上に大切なのは、肉体的余裕と精神的余裕なんだ」
二人は公園のベンチに腰掛けた。朝日が完全に昇り、辺りが明るくなってきている。冬桜の花びらが、時折風に乗って舞い落ちる。
「結論をいうと、睡眠、食事、運動だ。規則正しく過ごして、たくさん睡眠を取る。できれば断酒をして、睡眠の質を高める。筋トレで体力をつけ、自信もつく。これは脳科学的にもいい」
「ランニングも?」
「ああ、特にこういう自然の中を走るのは一石二鳥だ。食事は徐々に量を気をつけていこう。ひとまずラーメンはやめた方がいい」
「えー!」
思わず漏れた声に、二人は笑った。朝の光の中、その笑顔は不思議と似通って見える。
「禁煙して、早寝早起きをして朝活をする。朝を制するものは人生を制する。俺も筋トレは朝派だしな」
立ち上がった年長の誠一郎は、深く息を吸い込んだ。
「余裕だ。時間的、金銭的、肉体的、精神的な余裕。人生を楽しむために、それは絶対に必要なんだ」
それは、五十九年かけて出した結論だった。
公園を出る頃には、すっかり朝の陽が昇っていた。冬桜の花びらが、二人の背中に向かって舞い落ちる。まるで、これからの人生を祝福するかのように。
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