謝罪の場は重苦しい空気に包まれていた。会議室の中央に座る須藤の前で、私は背筋を伸ばして言葉を選んだ。蛍光灯の無機質な光が、テーブルの表面で冷たく反射している。
「どうもすみませんでした。以後気をつけます」
余計な言葉は付け加えなかった。シンプルに、かつ明確に。内心は面白くなかったが、それは表情に出さないように気をつけた。伊藤さんが仲介役として同席しているこの場はかえって状況を複雑にしているように感じられた。彼は時折、申し訳なさそうな表情で私の方を見ていた。
須藤は私の謝罪を受けて、いかにも得意げに説教を始めた。「警備の仕事っていうのはね、接客業なんだ。相手の印象を悪くしてはいけない」と、人差し指を立てて強調する。「若いからって自分勝手なやり方は通用しない」
私はその言葉を右から左へと流しながら、形だけの相槌を打っていた。窓の外では、五月の新緑が爽やかな風に揺れていた。まるで、この状況の虚しさを笑うかのように。
話が終わると、須藤は肩で風を切るように歩き去っていった。その背中からは満足感が滲み出ているようだった。
「お疲れ様でした」と伊藤さんが声をかけてくれた。彼の声には、申し訳なさと安堵が混ざっていた。
場が収まった後、伊藤さんは私とともに休憩室に向かった。コーヒーを入れながら、彼は須藤について説明を始めた。
「須藤さんは仕事に真面目なんです」と伊藤さんはカップを持ちながら言った。「今までも他の警備員とぶつかることは何回かありました。元料理人として働いていた経験もあるようで…厨房でのきつい上下関係に慣れているのかもしれません」
淹れたてのコーヒーの香りが、緊張していた心をほぐしてくれる。私は一息ついて、考えていたことを切り出した。
「伊藤さん、提案があるんですが」
「ああ、なんですか?」
「警備シフトの作成、私が担当させていただけないでしょうか」
伊藤さんは少し驚いた様子を見せた。私は続けた。
「エクセルには自信があるんです。それに」と、画面を開いて見せながら、「こういったマクロを使えば、より効率的にシフトを組むことができます。伊藤さんの業務負担も減りますし」
伊藤さんは興味深そうに画面を覗き込んだ。「確かに、これなら随分楽になりそうですね」
「もちろん、私情は極力排除します。須藤さんとのシフトも…できるだけ重ならないように調整させていただきます」
その日の夜、年長の誠一郎さんの家での会話。もうすでに日常となったこの光景は、仕事上における上司から部下へのフィードバックの様だ。
「この1年は俺の言う通りにしてほしい」
以前言われた年長の誠一郎の台詞を若い誠一郎は忘れてない。そのこともあり、素直に年長の誠一郎の言うことを聞いている。ただ誰よりも説得力がある。
「実際に気分を害してしまったんだから、謝るのは当然だよ」と彼はおかずを箸で摘みながら言った。「例えば、犬の尻尾を踏んで吠えられるようなものさ。でも犬と喧嘩したって時間の無駄だろう?簡単に勝てるかもしれないが、噛まれたら怪我する。しかも”勝ったところで”何もない」
「須藤には悪いが」と茶碗を置きながら付け加えた。「これからの俺たちの人生には須藤は野良犬くらい相手にする価値もない。君にはもっと大切なものがあるはずだ」
「実はな、新しいことを始めたんだ」と彼は少し照れくさそうに言った。「ブログを書き始めたんだ。今までの経験を、誰かの役に立つかもしれない言葉にしていきたいと思ってね」
彼は続けた。「ネット上の仕事なら年齢はごまかせる、身分証も誠一郎のものを使える。そしてコツコツやっていける。PVを稼げて、少しでも小遣いになればいいんだ。振込先は誠一郎の口座が使える。下手なことして迷惑をかけたくないからね」
五月の夜風が網戸を通り抜け、部屋に心地よい空気を運んでくる。誠一郎さんは立ち上がり、キッチンで茶を淹れ始めた。
彼は静かに言った。「あせらず」一呼吸置いて、「あわてず」もう一度深く息を吐いて、「そして、あきらめず」
”あせらず、あわてず、あきらめず”
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあり、私への励ましのようでもあった。茶碗から立ち上る湯気が、夜の空気にゆっくりと溶けていく。それは、新しい何かが始まることを予感させる、穏やかな時間だった。
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