桜の花びらが舞う四月の大学キャンパス。古びた赤レンガの校舎に、春の陽が優しく差し込んでいた。誠一郎は警備員の詰所から、その光景を眺めていた。
1日2名体制の警備。夜になり、最後の研究室の明かりが消え、校舎の施錠を終えると、あとは静かな夜が続く。22時から翌朝4時までの六時間は確実に仮眠が取れる。地震や火災でもない限り、誰かに起こされることもない。
そんな生活にも1ヶ月が経った頃、思わぬ波紋が広がった。
「おい、城山」
先輩警備員の須藤が、珍しく話しかけてきた。56歳。無精髭を生やし、歯も何本か欠けている。若い頃は料理人として独立したものの、経営がうまくいかず店を畳んだという。聞いてもいないのに、よくその話をしてきた。
「態度が悪いんだよ、もっとまじめにやれ」
須藤の視線は、誠一郎が読んでいた本とノートパソコンに向けられていた。
「詰所で本を読んだり、パソコンを使ったり。新人のくせに」
伊藤の許可は取ってある。というより、暇な時間は誰もがスマートフォンや漫画で時間を潰している。須藤自身も例外ではない。
「真面目にやってますよ」
少し小馬鹿にしたような口調になってしまった。年長の誠一郎のような、清潔感があり、穏やかで、人の話をきちんと聞いてくれる大人が身近にいるだけに、須藤のような人間に注意される筋合いはないと感じていた。
「なんだその態度は!」
須藤の声が大きくなる。周りの学生が注目し始めた。春の陽だまりの中、穏やかだったキャンパスの空気が一変する。
「周りに迷惑ですから、大きな声は控えてください」
やれやれと本を閉じ、いかにも真面目な態度を装う誠一郎。その仕草が、更に須藤の怒りを煽った。
休憩時間、誠一郎は現場統括者の伊藤に電話をした。高校の同級生である彼になら、本音が話せる。事の経緯を説明する内に、自分も感情的になっていることに気づいた。
明けた次の日の夜。誠一郎は、年長の誠一郎に一部始終を話した。きっと「気にするな」とか「無視しろ」と言ってくれるはずだった。
「誠一郎から謝れ」
予想外の言葉に、誠一郎は戸惑う。
「なぜですか?別に僕は悪くないですよね。突っかかってきたのも須藤さんで…」
「納得いかないのはわかる。でも、そんなことで悩むのは時間の無駄だ。とっとと謝って終わらそう。須藤を変えるより、自分を変える方が簡単だ」
「でも、須藤なんかに謝るなんてプライドが…」
「プライドってどういう意味だ?」
その問いに、誠一郎はスマートフォンで検索を始める。
「誇り・自尊心…自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度…」
「お前に今、大事なのは自分の時間だ。ここで素直に謝っておけば、後々働きやすくなる。戦わなくていい戦いはしない方がいい。謝ることが、本当の意味でプライドを守ることになるんだ」
翌日は休日。朝のランニングで頭を整理し、シャワーを浴び、部屋の掃除を済ませる。時計が十時を指す頃、誠一郎は伊藤に電話をかけた。
「須藤さんに謝罪したいんです。私の勤務態度が悪かった。ただ、その場に立ち会ってもらえませんか」
寝て起きると、不思議と須藤への怒りも薄れていた。年長の誠一郎の言う通り、早くこの件を片付けたかった。
窓の外では、まだ桜が舞っている。キャンパスには新入生たちの声が響き、新しい季節の始まりを告げていた。
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