「失礼します」
所長会議を終え、最後の挨拶に訪れた社長室を後にする。社長の態度はそっけなく、もはや誠一郎への興味を完全に失っているようだった。
「代わりはいくらでもいるしな」
背中に投げかけられた独り言のような言葉が、わずかに耳に残る。
本社ビルを出た誠一郎は、秋の夕暮れの中で深く息を吸い込んだ。空気が冷たい。もう二度とこの場所に来ることはない。その事実が、不思議と心を軽くしていく。
退職まであと一週間。引き継ぎもほとんど終わり、残された仕事は後任の所長の補佐程度だ。「営業所のみんなも、俺がいなくなってホッとするかもな」そんな思いが頭をよぎる。
夕刻の郊外の一軒家。玄関を開けると、味噌汁の香りが漂ってきた。年長の誠一郎が台所に立っている。
「ただいま」
「お疲れさん。今日は味噌汁とサバの塩焼き。健康的な和食」
食卓に向かいながら、若い誠一郎は今日のことを話し始めた。社長の態度、そして最後の「代わりはいくらでもいる」という言葉。
「へえ、そう言われたのか」
年長の誠一郎は箸を置き、冷蔵庫からビールを取り出した。
「でも、それって逆に気が楽にならないか?」
「え?」
「やりたくないことを代わりにやってくれるんだぞ?ありがたいと思わないか?」
味噌汁を啜りながら、年長の誠一郎は続ける。
「俺も結構責任ある立場の仕事に最後までついてたけど、代わりにやってくれる人がいたらって心底思ったよ」
その言葉に、何か隠された意味があるような気がした。しかし、年長の誠一郎はさらりと話を変える。
「スティーブ・ジョブスっているじゃん?2011年に亡くなったけど、その後もアップルは業績を伸ばしてる。つまりジョブスほどのすごい人でも代わりはいる」
テーブルに置かれたiPhone 6に、若い誠一郎の視線が向く。
「代わりなんて誰でもいるってことさ。やりたいことをやればいい。俺は極端な話、人に迷惑かけなきゃ好きなことやればいいと思う」
ビールを注ぎながら、年長の誠一郎は静かに言葉を紡ぐ。
「やりたくないことは自分の代わりにやってもらって、やりたいことは自分でやればいい。そのくらいシンプルでいいんだ」
若い誠一郎は黙ってその言葉を咀嚼していた。何か大きなヒントを得たような気がする。目の前には、まだ温かい味噌汁と、半分も進んでいない生ビール。そして、三十年の時を超えて自分を導こうとしている、もう一人の自分。
「ビールを飲むのは自分でやりたいけどね」
ビールを掲げながら、若い誠一郎は笑った。その表情には、もう迷いはなかった。
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