退職まであと一ヶ月。誠一郎の新しい生活の舞台が決まった。
郊外の一戸建て。4LDK、築29年。庭にはプレハブの小屋があり、車も余裕で停められる。家賃は月5万5千円。古い家だが、その分だけ思い出を刻む余白が大きいような気がした。
「礼金なしで、1ヶ月のフリーレントも付けてもらえました」
不動産屋のロビーで契約書に署名しながら、若い誠一郎は年長の誠一郎の交渉術に感心していた。まるで長年の経験則が、この瞬間のために積み重ねられてきたかのように。
書類上は親子の設定。代表である若い誠一郎と、父親という設定の「城山俊夫」。その名前を選んだ理由は特になかったが、妙としっくりきた。
引越しは自分たちでやることにした。レンタカー会社の営業所から2トントラックを借り、正規の料金を払って。それは誠一郎の、会社への最後の誠実さだったかもしれない。
大きな家具を運び終え、トラックを営業所に返す道中。若い誠一郎は深いため息をついた。
「やっぱり、無職になるのが怖いです」
窓の外では、夏の夕暮れが街を赤く染めていく。
「昔から仕事が続かないんですよね。ホテルマンも、営業職も…3年持てばいい方」
自己嫌悪の色を帯びた言葉に、年長の誠一郎はペットボトルのフタを閉めながら静かに答えた。
「目標が変わるのは当然だよ。それはアップデートだと思えばいい」
「アップデート…ですか?」
「ああ。今の時代、ずっと同じことをやり続けるより、変化していく方がいい。現状維持は退化とも言うしな」
助手席で若い誠一郎が黙って聞いている。
「いろんな経験を経て、色んな気づきを得て、さらなる高みを目指す。テレビゲームだって、最初に買ったスーパーマリオをずっとやり続けるわけじゃないだろう?」
「それは、そうですけど」
「少しずつ難しいことに挑戦していく。マリオで言えば、1-1をクリアして1-2に進むように。無職は一時的な状態でしかない。施設警備員をしながら、自分らしく生きる道を探していけばいい」
その時、誠一郎の携帯電話が鳴った。営業所からだ。日曜日だが、一般向けレンタカーの営業はしている。どうやら部下が取引先への納車中に事故を起こしたらしい。
「もう、何やってんだよ…」
若い誠一郎は呆れ気味に言う。
「どうせ営業所に戻るから、そこで対応考えよう」
電話を切る若い誠一郎に、年長の誠一郎が問いかける。
「思い通りにいかないとイライラするよな?」
「誰でもそうでしょ?」
「怒りの感情は邪魔なんだ。できるだけなくした方がいい。感情のコントロール、つまり自分自身のコントロールってことだ」
「ミスター・ポポみたいなこと言わないでください」
思わず漏れた冗談に、二人の笑い声が車内に響く。新しい環境への一歩は、不安と期待が混ざり合った、そんな空気の中で始まろうとしていた。
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