#4 夜明けの決意

午前三時二十八分。目を開いた瞬間、誠一郎は時刻を悟っていた。何十年も続けてきた生活リズムは、体内時計として完璧に機能していた。暗闇の中で、ゆっくりと上体を起こす。

「さあ、どうだ」

声に出して確認するように呟く。背中が軽く痛む。後部座席を倒して寝たとはいえ、五十九歳の体には少々厳しい寝床だった。周囲を確認する。大きな自然公園の駐車場。昨夜、慎重に選んだ場所だ。

まだ辺りは暗い。街灯の淡い光が車内にかすかに差し込んでいる。助手席に置いた腕時計を確認する。やはり三時半前。いつもと変わらない目覚めの時間。そして、いつもと同じように冴えわたる意識。

「やっぱりな」

小さなため息が漏れる。しかし、その声には意外な明るさが混じっていた。タイムスリップという非現実的な出来事が、夢ではなかったことへの安堵感。いや、それ以上の何かを感じていた。

誠一郎は意識的に、その感情を言語化してみる。解放感─。そうだ、これは間違いなく解放感だった。地方都市一等地の自社ビルで、毎日のように部下たちと向き合い、際限のない判断を迫られる生活から、突如として解き放たれた感覚。

若い自分との再会。その予期せぬ展開に、胸が高鳴るのを感じる。この興奮は、新規事業を立ち上げる時や、大型案件を成功に導いた時にしか味わえない類いのものだった。

しかし、すぐに現実的な課題が頭をよぎる。衣食住の確保。特に金銭の問題は深刻だ。財布も持たず、この時代に存在するはずのない五十九歳の自分には、銀行口座すらない。

「日雇いか…」

その選択肢は、すぐに否定された。合理的な判断を常としてきた誠一郎には、その道が最適解でないことは明らかだった。現代の日雇い労働は、ほとんどがスマートフォンやインターネットを介して仕事を探す。その手段すら持たない状況で、どうやって仕事を見つければいいのか。

そもそも、社長として長年経営に携わってきた自分に、肉体労働が務まるのか。いや、それ以前に、正体不明の五十九歳を雇ってくれる場所などあるのだろうか。

「若い誠一郎を頼るしかない」

その結論には、迷いがなかった。記憶を手繰り寄せる。この時期の自分がどこに住んでいたか、どんな生活を送っていたか。両親の家から十五分。そこそこの築年数のアパートの二階。休日は主に読書か、たまに映画。趣味と言えるほどのものはなく、ただがむしゃらに働いていた時期。

「正体を明かすべきだ」

その判断にも躊躇はなかった。自分のことは自分が一番よく分かっている。二十九歳の誠一郎の性格、価値観、そしてこの時期特有の悩み。誰よりも理解しているはずだ。

車のシートに深く身を沈めながら、誠一郎は考えを巡らせる。タイムスリップ。この異常な状況には、きっと何か意味があるはずだ。偶然とは思えない。むしろ、これは一つのプロジェクトとして捉えるべきかもしれない。

まず、目の前の課題を整理する。衣食住の確保が最優先。その解決には若い誠一郎の協力が不可欠。しかし、いきなり正体を明かして信用を得られるだろうか。証明する手段はあるのか。

閃きが走る。この時期の自分にしか知り得ない情報。両親のこと、アパートの様子、仕事の内容、そして何より、心の内にある悩み。これらの情報は、最強の証明手段になるはずだ。

誠一郎は運転席に移動し、シートを起こした。まだ外は暗いが、少しずつ夜明けの気配が感じられる。汗ばむ空気の中、エアコンをつける余裕はない。ガソリンは大切に使わなければ。

時計は四時を指していた。いつもの行動開始の時間。若い誠一郎も、この時間には起き出す習慣があったはずだ。まだその習慣は継続できていない時期だが、必ず四時に目が覚めるのは、生まれ持った体質なのかもしれない。

車のエンジンをかける前、誠一郎は深く息を吸い込んだ。昨日から何も食べていない胃は、むしろ快調だった。定期的なファスティングの習慣が、今、思わぬ形で役立っている。

シャワーを浴びられないことへの不満は残るが、それも我慢するしかない。今は目の前の課題に集中すべき時だ。若い誠一郎が働いているレンタカー会社。その場所へ向かう前に、もう少し準備が必要だった。

公園の外周を歩きながら、誠一郎は頭の中で計画を練る。最初の接触をどうするか。どんな言葉で切り出すか。想定される反応にどう対処するか。全てを論理的に組み立てていく。

歩きながら、誠一郎は気づいた。この高揚感は、かつて大きなビジネスチャンスを前にした時と同質のものだった。不安と期待が入り混じった、しかし確かな手応えのある感覚。

「とことん楽しんで、結果を出してやろう」

夜明け前の空に向かって、誠一郎は微笑んだ。人生とは不思議なものだ。まさか五十九歳にして、こんな冒険に出ることになるとは。しかし、その予期せぬ展開にこそ、人生最大の意味が隠されているのかもしれない。

空が少しずつ明るみを帯び始めていた。新しい一日の始まり。そして、おそらく2人の誠一郎の人生における、新しい章の幕開けでもあった。

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